仁丹の生みの親である森下博が、日本や中国で薬の名前として使われてきた「丹」の文字を外すことはできない、と迷うことなく決めました。実際に富山の反魂丹など、有名な丸薬には「丹」の文字が多く使われています。

- 森下仁丹の創業者 森下博
1893年森下南陽堂として創業させ、1895年からアイデアとして暖めていた「仁丹」を生み出す。積極的な宣伝活動を行い「広告王」と呼ばれた。
庶民からお金持ちまで、あまねく使ってもらうためにも、薬っぽい名前を好しとしませんでした。そこで、かねてから交流があった藤沢南岳氏と西村天囚氏の二人に相談することにしました。実は森下博が相談したこの二人、彼らの名前は知らなくとも、彼らが命名したモノは誰もが知っているという人物なのです。

- 藤沢南岳氏は、幕末から明治・大正時代にかけて活躍した大阪在住の漢学・儒学者です。それだけではピンと来ませんが、1903年に大阪の天王寺周辺で開催された「第五回内国勧業博覧会」跡地に生まれた“新世界”のシンボル『通天閣』の命名者なのです。

- 西村天囚氏は、明治・大正時代に活躍した言論人(現在でいうジャーナリスト)。東京帝国大学(現在の東京大学)を中退して「大阪朝日新聞」に入社し、後に主筆として活動しました。なんと西村は、現在の朝日新聞にも存在する名物コラム『天声人語』の名付け親と言われています。
森下博は、この二人にサポートを受けながら、“医は仁術”という言葉や、儒教の教えである“五常=仁・義・礼・智・信”の首文字であることに着想を得て、「仁」の文字を使うことにしました。
また、「仁」の読み方も当初は「にん」と読み、仁徳天皇など皇族に付けられる文字で畏れ多いと感じ、迷っていたようですが、二人から「じん」と読めば問題ないとアドバイスされ、「じんたん」という読み方も決めました。まさに「仁丹」という商品名は、藤沢南岳氏と西村天囚氏の二人がいなければ生まれなかったかもしれません。
このような高名な学者たちがサポートするほど、当時において「仁丹」は画期的な商品だと期待されていたのかもしれません。

- 森下仁丹は歴史ある企業なだけに多くのエピソードが残っています。
例えば、1936年頃には『夫婦善哉』などの作者でもある作家・織田作之助が、森下仁丹の広告文案家(現在のコピーライター)の入社試験を受けたそうです。もちろん作家として名を馳せる前の出来事ですが、織田自身も非常に記憶に残る出来事だったらしく、後の自伝的小説『二十歳』の一節に、“玉造の製薬会社が募集している広告文案係~”という森下仁丹の社員募集に応募したエピソードと思われる文が登場します。ちなみに採用試験の結果は“一週間経つと、不採用の通知が来た。その会社で発売している薬の見本袋が入っていた。”と書かれてある通り“不採用”だったとか。残念。




