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広告ギャラリー

森下仁丹 広告の歴史

1890年代1890年代

1.「やまと衣」の広告

1.「やまと衣」の広告
薬石新報 1896年11月15日(明治29年)

対処薬としての「毒滅」に先だって、フランスから輸入したルーデサック「やまと衣」を性病予防器具として発売し、「病気は予防するものである」という考えを実践した。

これは、今日の予防医学の考え方を先取りするもので、予防や衛生が軽視されていた時代背景を考えれば画期的なことであった。

2.香袋「金鵄麝香」の広告

2.香袋「金鵄麝香」の広告
大阪朝日新聞 1896年7月9日(明治29年)

1896年(明治29年)2月11日には、日清戦争の功労者に贈られた金鵄勲章にちなんだ、香袋「金鵄麝香」を発売。1898年(明治31年)には内服美容剤「肉体美白丸」を発売。いずれも時代を先取りした新しいカラーを盛り込んだ意欲的で優れた製品だったが、販売の実績だけをとれば「失敗だった」と言わざるを得なかった。

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1900年代1900年代

1.仁丹創売当時の看板

1.仁丹創売当時の看板
道頓堀 1900年頃

突き出し看板を全国の薬店に取りつけ、やがて大礼服マークは薬局の目印にまでなった。

2.森下博薬房軒先看板

2.森下博薬房軒先看板
1900年頃

全国の薬店に突き出し屋根看板や幟、自動販売機などを設置し、新聞の全面広告を連続して出すなどの広告戦略を行った。

3.吊り広告幕

3.吊り広告幕
1900年頃

全国の薬店に突き出し屋根看板や幟、自動販売機などを設置し、新聞の全面広告を連続して出すなどの広告戦略を行った。

4「毒滅」の広告

4.「毒滅」の広告
大阪朝日新聞 1905年7月21日(明治38年)

1900年(明治33年)2月11日、梅毒新剤「毒滅」を発売。「毒滅」の処方は笹川三男三医学博士が開発。商標にはドイツの宰相ビスマルクを使用し、森下博は家財の一切を広告費につぎ込んで、日刊紙各紙に全面広告を出し、全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、大々的な宣伝を行った。

当時、梅毒は花柳病、文明病としてその猛威を振るっており、「毒滅」は画期的な新薬として注目された。ビスマルクの「毒滅」、ビスマルクの「森下南陽堂」の名は瞬く間に広まったのである。「毒滅」の成功で森下南陽堂の業績はようやく軌道に乗り始めた。

5.大阪朝日新聞

5.大阪朝日新聞
1905年5月17日/5月26日(明治38年)

「仁丹」発売にあたっては、「新聞の全面広告を連続で出す」ことを全国の薬店むけの「仁丹規定書」に明記したものであった。

6.福島広告場に掲出した「毒滅」の広告(左上)

6.福島広告場に掲出した「毒滅」の広告
1907年(明治40年)

1900年(明治33年)2月11日、梅毒新剤「毒滅」を発売。「毒滅」の処方は笹川三男三医学博士の開発。商標にはドイツの宰相ビスマルクを使用し、森下博は家財の一切を広告費につぎ込んで、日刊紙に全面広告を出し、全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、大々的な宣伝を行った。

当時、梅毒は花柳病としてその猛威を振るっており、「毒滅」は画期的な新薬として注目された。ビスマルクの「森下南陽堂」の名は瞬く間に広まったのである。「毒滅」の成功で森下南陽堂の業績はようやく軌道に乗り始めた。

7.大阪駅前の仁丹広告塔

7.大阪駅前の仁丹広告塔
1907年(明治40年)建設

1907年(明治40年)に大阪駅前に完成させた大イルミネーションは大阪名物のひとつとなり、翌年には東京神田の開花楼の上に書方活動式三色イルミネーションによる広告塔も登場した。これらは、単に広告だけでなく、都市の新名所づくりなどを意図したものであった。

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1910年代1910年代

1.京都の市中に残る町名看板

1.京都の市中に残る町名看板
1910年頃

町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる。

2.大正元年頃の店頭看板

2.大正元年頃の店頭看板
1912年頃

3.東京河田盛弘舎のイルミネーション

3.東京河田盛弘舎のイルミネーション
1912年頃

4.船場小学校前の電柱広告

4.船場小学校前の電柱広告
1917年頃(大正6年)

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1920年代1920年代

1.東京・上野大広告塔

1.東京・上野大広告塔
1922年(大正11年)

2.「赤小粒仁丹」の広告

2.「赤小粒仁丹」の広告
大阪毎日新聞 1927年(昭和2年)7月19日

赤小粒仁丹は、ほぼ現在の仁丹と同サイズで、容器には従来のニッケルに変えて、セルロイドの透明容器を採用。販売対象も婦人層を狙って広告キャンペーンを行った。

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1930年代1930年代

1.東京・浅草大広告塔

1.東京・浅草大広告塔
1932年(昭和7年)建設

2.仁丹号による全国一周宣伝飛行

2.仁丹号による全国一周宣伝飛行
1936年(昭和11年)

1936年(昭和11年)には、博物知識や日常のエチケット、トピックスなどを三行の短文に盛り込んだ「昭和の常識」広告を新聞紙上でスタートさせ、これに関連した大懸賞を発表し、その宣伝のため、「仁丹号」と命名した飛行機に日本一周飛行をさせ話題を集めたのである。

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1950年代1950年代

1.戦後初の新聞広告

1.戦後初の新聞広告
1950年(昭和25年)1月1日

1950年(昭和25年)1月、戦後初めて新聞の1頁広告を行った。「広告による薫化益世を使命とする」という事業の基本方針は、健在であった。

2.仁丹アベック歌の旅

2.仁丹アベック歌の旅
1952年(昭和27年)頃、丹下キヨ子、笠置シヅ子ら

1951年に、名古屋の中部日本放送、大阪の新日本放送などがそれぞれラジオ放送を開始した。

常にメディア広告を効果的に利用することで市場を開拓して来た森下仁丹は、この新しいメディアにも早い段階から注目し、さまざまなラジオ番組のスポンサーとして、仁丹は憩いの時間を聴取者に届けるようになった。

3.仁丹の歌を歌うダークダックス

3.仁丹の歌を歌うダークダックス
-テレビCFより

1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビが民放最初のテレビ局として誕生し、テレビ時代が来ると、テレビ番組の提供やスポット広告も積極的に行うようになった。ことに人気者のコーラスグループ「ダークダックス」が歌った「ジンジンジンタンジンタカタッタッタ」というCMソングは大人から子どもにまで親しまれ、口ずさまれたのだった。

4.東京・浅草大広告塔

4.東京・浅草大広告塔
1954年(昭和29年)再建

5.高嶋忠夫

5.高嶋忠夫(CM)

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1960年代1960年代

1.東京渋谷仁丹ビル・ネオン塔

1.東京渋谷仁丹ビル・ネオン塔
1963年(昭和38年)

1963年(昭和38年)には、東京都渋谷区に、東京支社新社屋が完成。このビルは建物自体が新時代の広告塔というべきもので、ドイツから取り寄せたハロゲンライトを屋上に取り付けて、上から道路を照らした。このビルもまた「都市の美観とともに、青少年の非行防止に」という願いを込めたもので「広告益世」の思想を時代の変化の中に息づかせたものであった。

2.ダークダックス(CM)

2.ダークダックス(CM)

3.森繁久弥(CM)

3.森繁久弥(CM)

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1970年代1970年代

1.第1回「歌うロマンスタジオ」

1.第1回「歌うロマンスタジオ」
1970年(昭和45年)

1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビが民放最初のテレビ局として誕生し、テレビ時代が来ると、テレビ番組の提供やスポット広告も積極的に行うようになった。

2.名神高速道路吹田広告塔

2.名神高速道路吹田広告塔
1970年(昭和45年)

3.山口崇(CM)

3.山口崇(CM)

4.篠田三郎(CM)

4.篠田三郎(CM)

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1980年代1980年代

1.新御堂筋豊崎広告塔

1.新御堂筋豊崎広告塔
1981年(昭和56年)

2.阪神高速道路空港線広告塔

2.阪神高速道路空港線広告塔
1982年(昭和57年)

3.田中邦衛(CM)

3.田中邦衛(CM)

4.新沼健治(CM)

4.新沼健治(CM)

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1990年代1990年代

1.本社屋上広告塔

1.本社屋上広告塔
1990年(平成2年)改修

2.大阪心斎橋屋外文字放送

2.大阪心斎橋屋外文字放送
1992年(平成4年)

3.御堂筋広告塔

3.御堂筋広告塔
1993年(平成5年)

4.大阪天王寺駅前屋外文字放送

4.大阪天王寺駅前屋外文字放送
1993年(平成5年)

5.阪神タイガース監督 中村勝広(CM)

5.阪神タイガース監督 中村勝広(CM)

6.女子プロゴルファー松澤知加子(CM)

6.女子プロゴルファー松澤知加子(CM)

7.女子プロゴルファー松澤知加子(CM)

7.女子プロゴルファー松澤知加子(CM)

8.水野美紀

8.水野美紀

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広告益世の思想と創業当時の広告広告益世の思想と創業当時の広告

曽我廼家五郎劇場へ寄贈の仁丹ニコニコ緞帳
曽我廼家五郎劇場へ寄贈の仁丹ニコニコ緞帳
7.大阪駅前の仁丹広告塔
大阪駅前の仁丹広告塔
(明治40年建設)
1.京都の市中に残る町名看板
京都の市中に残る町名看板
4.船場小学校前の電柱広告
船場小学校前の電柱広告
(大正6年)

「仁丹といえば広告」と言われるほど、仁丹と広告とは切っても切れないものになっている。

森下博が広告の重要性を知ったのは「三木元洋品店」での丁稚奉公時代であった。
独立して森下南陽堂を開業した際、森下博は事業の基本方針のひとつとして「広告による薫化益世を使命とする」を掲げた。すなわち、広告は商売の柱である、と同時に広く社会に役立つものでなくてはならないという「広告益世」の理念を示したのであった。

1896年(明治29年)森下南陽堂は、「金鵄麝香」の発売にあたって、4月25日付けの『薬石新報』に全面広告を出したが、これが記念すべき広告第一号となった。さらに、1900年(明治33年)の「毒滅」発売に際しては日刊各紙に全面広告を出すなど大々的なキャンペーンを行って成功を納めた。

1907年(明治40年)に大阪駅前に完成させた大イルミネーションは大阪名物のひとつとなり、翌年には東京神田の開花楼の上に書方活動式三色イルミネーションによる広告塔も登場した。これらは、単に広告だけでなく、都市の新名所づくりなどを意図したものであった。

また、町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。

当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる。

「広告益世」の理念が着実に実現されていった、その真骨頂とも言えるのが、1914年(大正3年)にスタートした「金言広告」である。

「天は自ら助くる者を助く」「時を空費するは無情の奢侈なり」など古今東西の格言から厳選した5,000種類の金言を、新聞広告は言うに及ばず電柱広告、看板、紙容器などに入れたのである。
「金言広告」は新しい時代の広告として一世を風靡し、各方面から称賛を博し、学校などから多くの感謝状が寄せられた。

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戦後期の広告戦略戦後期の広告戦略

1.戦後初の新聞広告
戦後初の新聞広告
(昭和25年1月1日)
3.仁丹の歌を歌うダークダックス
仁丹の歌を歌うダークダックス
(テレビCFより)
1.東京渋谷仁丹ビル・ネオン塔
東京仁丹ビル

戦災により主力工場を失い、原料供給のルートまで途絶えた状態から再建された森下仁丹は、1950年(昭和25年)1月、戦後初めて新聞の一頁広告を行った。「広告による薫化益世を使命とする」という事業方針は、健在であった。

1951年に、名古屋の中部日本放送、大阪の新日本放送などがそれぞれラジオ放送を開始した。
常にメディア広告を効果的に利用することで市場を開拓して来た森下仁丹は、この新しいメディアにも早い段階から注目し、さまざまなラジオ番組のスポンサーとして、仁丹は憩いの時間を聴取者に届けるようになった。

また、1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビが民放最初のテレビ局として誕生し、テレビ時代が来ると、テレビ番組の提供やスポット広告も積極的に行うようになった。ことに人気者のコーラスグループ「ダークダックス」が歌った「ジンジンジンタンジンタカタッタッタ」というCMソングは大人から子どもにまで親しまれ、口ずさまれたのだった。

1963年(昭和38年)には、東京都渋谷区に、東京支社新社屋が完成。このビルは建物自体が新時代の広告塔というべきもので、ドイツから取り寄せたハロゲンライトを屋上に取り付けて、上から道路を照らした。このビルもまた「都市の美観とともに、青少年の非行防止に」という願いを込めたもので「広告益世」の思想を時代の変化の中に息づかせたものであった。

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