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森下仁丹百年物語

第3章 変革期

戦後の再建へ - 第二代社長の誕生と取り組み

1943年(昭和18年)3月20日、創業者・森下博は西宮市六甲の苦楽園甲山居の自宅で静かに息をひきとった。享年75歳であった。翌日、中国の新聞は「神薬仁丹の創業者、日本森下博大先生死す」と訃報を伝え、故郷の広島県鞆町では全町をあげて弔意を表し、6月27日、同町国民学校校庭において盛大な町葬を行って故人を悼んだ。

社長の死に伴い、新社長には博の孫の泰が就任した。泰は当時21歳。京都大学経済学部に在学中の学生であった。

しかし、この時戦争は一段と厳しさを増していた。青年男子は皆戦場に駆り出されていたのである。社長に就任したばかりの森下泰も京都大学を繰り上げ卒業すると、1943年(昭和18年)9月30日付けで、海軍主計見習尉官に採用され、海軍経理学校に入校。このため、社業の一切は博の長女・森下次子と幹部社員を中心に運営されることになった。

戦後、海軍から戻った森下泰は、まず戦災で主力工場を失い、原料供給のルートまで途絶した会社の建て直しという重大な課題に手をつけなければならなかった。

1945年(昭和20年)12月、森下仁丹は玉掘の本社焼け跡にバラックの事務所と工場を建てて、粉ハミガキの生産を再開する。厳しい経済統制によって紙や木箱などの包装・梱包資材の手配は難しかったものの、原料のカルシウムはどうにか入手できた。この時期、生活必需品であるハミガキは作りさえすれば売れた。仁丹の製造が不可能な状況の中で、粉ハミガキは救いの神となったのであった。

さらに、1947年(昭和22年)1月には、戦災をまぬがれた第二工場で仁丹の製造を再開。12月には第一工場北工舎が新築落成して仁丹の包装作業を始めた。1950年(昭和25年)には「仁丹友の会」を結成。戦争で中断していた仁丹規定書による特売を復活。また、体温計も山形の分工場を中心に生産を始め、前年には年間90万本の生産をあげ、統制が解除されると同時に販売を再開した。


森下泰、米国視察旅行より帰る
(昭和26年8月1日)


仁丹歯磨工場(第三工場)
(昭和27年)


戦後の「仁丹歯磨」
(100g20円)

高度成長期を迎えて - 技術革新時代への基礎固め

昭和30年代、わが国の経済は未曾有の高成長を遂げていた。当時の池田内閣は「所得倍増計画」を打ち出し、一気にGNPをアップすることを公約した。

当社は1957年(昭和32年)9月には本社敷地内に研究所を完成させ技術革新時代への体制を整える一方、経営の多角化にも積極的に乗り出すようになった。

1959年(昭和34年)9月には井村屋製菓株式会社との提携で「仁丹ミントガム」を発売。翌年には「野球ガム」「栄養ガム」「ハリマオガム」を加え、1961年(昭和36年)には「うめぼしガム」のほか「粉末ジュース」「即席しるこ」などの製品も加えて食品事業部門を充実させた。

また、1965年(昭和40年)には医薬分野に強く根を張ることをめざして、アメリカのドール社との提携で、ドール社が抽出に成功したタンパク質分解酵素・ブロメラインの用途開発を目的とした仁丹ドール株式会社(現・ジェイドルフ製薬株式会社)を設立。1967年(昭和42年)には同社が商品化した痔疾薬「ヘモナーゼP」を森下仁丹より発売。薬局・薬店向けの営業・販売体制を強化し、乗り物酔い薬「ポード」やアメリカン・ホーム・プロダクツ社との提携による解熱・鎮痛薬「アナシン」などの販売を手がけた。これに伴って、創業以来の少数代理店主義は見直され、全国56の代理店と当社を結ぶ「仁丹会」が結成された。

食品部門は「うめぼしガム」のヒットなどによって、1963年(昭和38年)には、全社の総売上の6割を食品部門が占めるまでに至ったが、この頃から激しくなった業界の過当競争によってまもなく業績は極端に悪化。さまざまな曲折をへて、1967年(昭和42年)、菓子から農産加工など純食品へ転換することを基本に、仁丹食品株式会社として独立させた。

1963年(昭和38年)に商号を仁丹体温計株式会社から株式会社仁丹テルモと改めた体温計部門ともども、「それぞれが独自の企業基盤を築きながら、企業グループとして発展していこう」とする「分社経営」の理念に則って再出発を期することになったのである。

のちに仁丹テルモは病院向けの総合医療機器メーカーに成長して、独立してテルモ株式会社となった。また、仁丹食品は1986年(昭和61年)再び当社に吸収合併されて今日に至っている。


仁丹体温計(株)東京新工場
(昭和34年1月)


仁丹ドール(株)
(昭和48年)


仁丹食品(株)北海道京極工場
(昭和48年)


「うめぼしガム」
(昭和36年発売)

社長・森下泰の死去 - 新しい時代への船出

1987年(昭和62年)11月14日、社長・森下泰は心不全のため香雪記念病院で死去した。享年65歳であった。

社業だけでなく、戦後まもなく大阪青年会議所の設立に奔走するなど関西財界の発展に尽力し、業界においても指導的な役割を果たし、趣味の剣道でも要職を歴任、また、1974年(昭和49年)からは、参議院議員となるなど、広い分野で活躍した故人を偲んで、葬儀には薬業界、政財界などから多くの参列者が出席した。

葬儀委員長を務めた佐治敬三サントリー株式会社社長は、次のような弔辞を読み上げた。

「泰君、君は毅然たる人生を送った。お世辞、お辞儀、お追従が苦手な君は、生涯、背筋をしゃんと伸ばし、胸を張って、立派に人生を闊歩した。余りにも駆け足で逝ってしまった君に、私たちは何も返すことができなかった。許して欲しい。君去って、我らが身辺はにわかに寂しくなってしまった」

なお、森下泰は死後、正四位に叙せられ、勲二等旭日重光章を授与された。

社長の死によって、社内もあわただしかった。社長職務代行には代表取締役専務・岡崎康雄が就任。翌年、2月には森下美恵子が代表取締役社長に就任して、森下仁丹は新たな陣容で再出発を誓った。


森下泰 社葬
(昭和62年12月10日 大阪津村別院)


参議院議員として活躍する森下泰
(昭和58年)


森下美恵子新社長の1日店長
コクミン薬局にて
(株式会社ドラックマガジン提供)